とらすず日記

訪れた日本のおすすめ場所や観光地などの旅情報を発信

大久野島(うさぎ島)旅

~2021年1月9日(土)~

青春18きっぷが1枚残っていた為、大阪から島の玄関駅・忠海駅へ。

06:25
JR大阪駅から快速姫路行きに乗車。
12両編成は、ほぼ座席が埋まる程の乗車率。
定刻7時56分に姫路着。
(階段を下り、別ホームの列車に乗換)

08:01
山陽本線岡山行3両編成。
乗客は、岡山駅手前まで7割程度の着席率の乗客。
定刻9時29分、岡山駅到着。
ホーム向かいの列車に乗換。

09:31
山陽本線三原行に乗車。
11時12分三原駅手前で到着ホーム変更に伴う信号待ちで2分程遅れて到着。

11:29
呉線広行普通列車に乗車。

途中の駅では、観光列車「etSETOra(エトセトラ)」とすれ違い。



11時52分、忠海駅に到着。



駅から徒歩5分程、海側の反対の駅前からぐるっと回り忠海港へ。
目の前には、定期船フェリーが着岸。
港近くのお土産屋内の乗船券・往復(310円×2)を購入。

12:00
慌ただしく、忠海港を出港。



約15分の乗船後(12:15)、大久野島港に到着。
大三島フェリーは、すぐに大三島(盛港)へ行くため、着岸前に船員が大声で客室から1階へ準備するように何度も案内。
(以前沢山観光客が来るときは必要なことですが、20名ちょっとの下船客には、着岸時の安全性に懸念がありました。)

12:15
大久野島に到着。



島に到着すると桟橋周辺にうさぎがお出迎え。



一旦、休暇村方面から島の外周道路の散策を予定しているので無料送迎バスで休暇村へ。



多忙期には、大型バスですが、寒い時期の閑散期&コロナで乗客は8名程。
(大型バスは、休暇村近くで駐車していました)



マイクロバスで休暇村の玄関前まで乗車。(約7-8分)

館内に入ると宿泊ロビー、レストラン、お土産コーナーが見えましたが早速、島の探索へ。

大久野島は、環境省管轄の無人島ですが、島には休暇村があり、関係者は住んでいるようです。
周辺には、キャンプ場やテニス場、海岸があり夏場には賑わう所のようです。

<島内の案内板>



休暇村から時計回りで外周道路を散策。

<三軒家毒ガス貯蔵庫跡>
ここには、猛毒で皮膚がただれる、びらん性毒ガス「イペリット」が貯蔵されていました。部屋の台座の上には、10トン入るタンクが置かれて、管を使って工場から直接タンクに毒液が送り込まれていました。イペリットやルイサイトなどの液体毒ガスは腐食を防ぐため、内部に鉛を張り付けたタンクに保管されていました。(現地、案内板より抜粋)



~ この辺りで見かけたうさぎ達 ~



歩いていると、追いかけてきます。



寒いので、じーっと、固まったまま。。。



海沿いの道を進みます。



たまに出現して、近づくと背伸びして、餌を要求。



<毒ガス貯蔵庫跡>
ここの毒ガス貯蔵庫跡は、当時毒液10トンを貯蔵できるものが8個、全体で80トンの毒液を貯蔵できました。ここには、イペリットやルイサイトなどの猛毒が貯蔵され、敗戦後連合軍の指示のもと処理され、現在は半分ぐらい埋められています。(現地、案内板より抜粋)



この周辺には、休暇村のテニスコートが数面並んでいました。



山側には、旧日本庭園跡にある石垣が見えました。



~ この辺りで見かけたうさぎ達 ~



さらに、海岸沿いを。
対岸には、竹原火力発電所の白い鉄塔も見えてきます。



少し歩くと見には、また毒ガス貯蔵庫後が。

<長浦毒ガス貯蔵庫跡>
(1929年~1944年 毒ガス製造時期)
旧陸軍は、1929年から終戦まで、この島でひそかに毒ガス製造を行っていました。主な製品は、イペリットとルイサイトで、いずれもびらん性ガスと呼ばれ、皮膚をただれさせる性質を持ち、年間生産量は多いときは1,500トンに及び、製造期(15年間)の総生産は6,616トンともいわれています。
第二次世界大戦が終わると同時に進駐してきた連合軍の指示のもと日本人作業者によって、この島にあった毒ガス工場や製品を1946年から約1年かけて、薬品で消毒したり、太平洋の沖に沈めたり、火炎放射器で焼いたりして処分しました。
コンクリートの内部が黒く焼け焦げているのは、当時、火炎放射器で焼却した跡。
(現地、案内板より抜粋)




毒ガス貯蔵庫跡の前で、直立姿勢で佇むウサギ。



この後、島の突き当りを右に外周道路が続きます。
ここから少しずつ登坂。



~ この辺りで見かけたうさぎ達 ~



上り坂の途中の山側(右)に入ると北部砲台エリアが。
(休暇村本館から1,100m)



<北部砲台跡>
日露戦争が始まる前の1902年に設置された芸予要塞の大久野島塁北部砲台跡。
大久野島には、北部、中部、南部の3箇所に砲台が設置され、合計22門の大砲が置かれていました。
ここには、24cm加農砲が、4門置かれていました。

~周辺のパノラマ写真~
(右奥が、トンネル)




・・・発電機関舎跡・・・



・・・地下兵舎跡・・・



・・・北部砲台跡にあるトンネル通路・・・



・・・欺加24cm加農砲跡・・・


 

島の外周道路に戻り、少し歩くと「北部砲台観測所跡」の標識が。



山岩を削り登ったところにありそうな場所。



途中、岩が転げ危険な場所ですが、足元の悪い場所を少し上ると煉瓦造りの部屋らしきものが。



この右奥の山を登る道がありましたが、足元が悪そうなのでここで元の道に戻ることに。
(帰る際、入口の岩元に「立入禁止」の小さなボードが横たわっていました)

島の外周道路に戻り、登ってきた感じの場所から対岸の景色が見えました。
島には、所々浜辺がありますが、写真の下の浜辺周辺は土嚢など工事中で行くことができない感じの場所だったと。
西日本豪雨災害で島の至る所が被害にあったようです)



さらに、外周道路を歩いて左に曲がると急に砲台跡が現れました。



<北部砲台跡>
ここには、12cm加農砲が、4門置かれていたようです。

 

~ この辺りで見かけたうさぎ達 ~



さらに、外周道路を歩いていると島の中央にある展望園地方面の山道の通行禁止がありました。(西日本豪雨で被害を受けたようです。)



~ この辺りで見かけたうさぎ達 ~



歩いていると、左右の山からガサガサという音と共にウサギが現れます。
餌を求めて突進してきます。



さらに歩いていると「火薬庫跡」の看板が。
こちらは、通行禁止となっています。



少し歩くともう一方側からも行く道がありましたが、後にこちらも通行禁止だったようです。

<火薬庫跡>



レンガ造りの火薬庫は、山肌から流れた土石流で崩壊しているようです。
足場も悪く、今なお山肌から滝のような水が流れ、天候次第ではさらに崩壊が進みそうです。



~ この辺りで見かけたうさぎ達 ~



時折、鳥も飛んでいました。



この辺りから、下りの道が続きレンタサイクルなどの方のためや土砂などの危険エリアには、コーンが置かれて注意喚起の目印が置かれていました。



また、途中にはここからも本来なら行ける展望台も通行禁止になっていました。



さらに5分ほど下って行くと発電所跡が見えてきました。

発電所跡>
この建物は、大久野島で毒ガスを製造する際(1929年~1945年)に、電力を供給していた発電所跡です。
ディーゼル発電機8基が重油を燃料として稼働していました。
また、この建物では1944年11月~1945年4月までの間、「ふ号作戦」に使用する風船爆弾の風船を膨らませ、弱い部分を補修する作業も行われてました。
(現地、案内板より抜粋)



周辺には、うさぎも居ました。



すぐ前は、海。



トンネルの向こうに対岸の造船施設の景色も見えます。



~ この辺りで見かけたうさぎ達 ~



<旧桟橋>
発電所跡のトンネルを出ると昔の桟橋が残っています。
現在の桟橋は、100mほどの場所にあります。



現在の桟橋
ここでは、忠海大三島からのフェリー、忠海からの客船の発着所。



埠頭には、建物があります。
船の切符が買える自動販売機と休憩できる椅子があるだけです。
右には、休暇村行き無料送迎バスが停車しています。


~ この辺りで見かけたうさぎ達 ~



桟橋で島を1周。
来た際に、送迎バスに乗車した道を歩き休暇村方面へ。
一部海側には遊歩道があり、キャンプ場広場がありましたが、寒いこの日は1組いました。
その後、第一桟橋へ。
夕方など定期客船が発着しています。
ここからは、送迎バスはなく徒歩5分ほどで休暇村本館へ行けます。



少し歩くとビジターセンター(無料施設)があります。
大久野島の紹介などがされていました。



ビジターセンターの前は海。
海辺にうさぎの耳のオブジェがありました。
耳を付けると。。。何かが聞こえるようですが。
(波の音と風の音かなぁ。)



ビジターセンター近くには毒ガス資料館があります。
こちらは、有料施設(150円)ですが、当時の資料や機材など展示されていました。
入口を入ると自動販売機で入場券(食券みたいな)を購入し、事務所窓口前の缶入れに入れて資料室1か所を見るだけです。

 

反対には、もう1室シアタールームがありましたがこの日は放映終了になっていました。



ここには、当時島の毒ガス関係の所在地図のパネルがありました。



(尚、展示品の撮影は禁止でしたが、館外に使用していた機器がありました)



中を覗くと、製造器具が。。。



<幹部用防空壕跡>
ビジターセンター前にあった防空壕跡。
穴の奥は、高さ・幅が2m、長さ5m程で、コンクリートに強固に作られた半地下式の防空壕
一般の人は、地面1mの穴に草木をかぶせた簡単なもの「通称(たこつぼ)」だったようです。
(現地、案内板より抜粋)



ビジターセンター近くには、慰霊碑がありました。



また、その横には神社も。



この辺りからは海沿いに歩き灯台方向へ。
周辺は海水浴場で、シャワー・更衣室らしき建物もありました。



ここから灯台方面へ。



灯台付近に大型船が通過していました。



灯台近くに山の階段を登り、5-6分で灯台に到着。



灯台付近は、崖が崩れる危険性がある注意書きがある「立入禁止」表示が。
(望遠で灯台を撮影)

 

この後、休暇村方面に行くため山を上り下り。
途中には、夕日の丘がありました。
細かな砂が広がる足場の悪い場所。
夕日は綺麗に見えると思いますが、風と寒さでその場を離れました。



この左側に綺麗な灯台風景が見えました。



~ この辺りで見かけたうさぎ達 ~



山道を下ります。
途中には、うさぎのための皿がありました。
(島にはたくさんの皿を見かけました。この日は氷が張っていたみたい。)



途中、分岐点があり、右に上ると南部照明跡があるようです。
右へ登っていきます。

<南部照明所跡>
明治の芸予要塞時代に探照灯(サーチライト)が置かれた場所です。
反射鏡の直径90cm、照射到達距離約6km。
多くの島の北部にも同じ照明所跡が残っているようです。
(現地、案内板より抜粋)



灯台のある小高い山を下ると休暇村の前にある大広場に到着。

ここでは、多くのウサギがお出迎え。
山を下りた際は、広場に掘られた穴で寒い風を避けて休んでいましたが、足音で飛んできました。





カメラを向けると、餌と勘違いしてレンズを覗き込みます。



休暇村全貌。



土曜休日は、休暇村客船が通常のフェリー以外に臨時で運行されているので、帰りは客船に乗車するために、桟橋へ。

休暇村から桟橋まで15分位は必要ですが、のんびり遊歩道などを歩き桟橋へ。

大久野島滞在、3時間20分。

15:35
大久野島港から忠海港まで土曜休日限定の休暇村客船に乗船。(310円)
三原方面の風景には、大きな造船所(今治造船・広島工場)も。



予定どおり、忠海港に15時50分着。

JR呉線忠海駅までは徒歩5分ほど。
呉線は、1時間に1本程度の路線で、次は16時21分発。
駅舎に隣接する交流センターで時間待ち。

16:21
呉線・三原行普通列車に乗車。
途中に車窓からは、しまなみ海道の橋が遠くに見えました。



16時46分、定刻に三原駅に到着。
ここから山陽本線で岡山方面へ。

16:50
乗換4分で呉線ホームから階段を下り、山陽線ホームへ乗換。
一駅先の糸原行普通列車に乗車。
16時54分糸崎駅に到着。

17:05
山陽本線岡山行普通列車に乗車。
乗客は半分ほど。
終点の岡山近くで人は乗ってきましたが、座席も空席が目立つ状況。
1時間半乗車、18時35分。岡山駅に到着。

19:17
待ち時間に岡山駅周辺で夕食と思いつつ、何もなく姫路行き列車に乗車。
車両は6両編成。
この区間は、3両編成が基本なので乗客もまばらに座っていました。
出発して3~4駅先で車両確認のため停車のアナウンスが。
結局、6分遅れで岡山方面へ。
その後、相生駅で2時間遅れの智頭急行・特急はくとを先発させて、2分遅れで終点の姫路駅へ。
姫路駅には8分遅れ(20:48)で到着。

20:56
岡山から到着した回送列車と同一ホームから新快速が出発するも、回送列車が出ないため2分ほど遅れて入線ごすぐに発車。
新快速米原行きは、定刻20時54分を2分ちょっと遅れて出発。
特急並みの列車は、大阪駅にはほぼ定刻の21時58分に到着。

その後、大阪駅から家の最寄り駅で下車して22時半までには自宅に到着。

今回は、残り一枚の青春18きっぷを使うため広島方面に行きました。
青春18きっぷ1枚当たり2,410円ですが、今回大久野島の最寄り忠海駅までの片道5,170円、往復10,340円の旅でした。

大久野島は、うさぎ島で有名ですがこの時期は寒さとコロナの関係上、人が少なく、3連休初日でしたが、閑散としていました。
コロナ以前は、年間40万人以上来島していたようですが、昨年は半分以下だったようです。
(ビジターセンター職員談)
フェリーも満員で乗れない話を聞きましたが、乗客20名ほどでした。
うさぎも餌が欲しくて、あちらこちらから寄ってきて怖い印象を持ちました。

以上


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